High-expertise コラム

このコラムは、相談業務の現場で活動するカウンセラーが、HCMカウンセリングセミナーを受講した際の“一口メモ”として執筆しています。

 

見立て8類型
基本編
  1. 成人期
  2. 思春期
  3. 軽度知的能力障害
  4. 被虐待者「異邦人」
上級編
  1. 学童期・「成人学童期」
  2. 統合失調症
  3. 自閉症スペクトラム障害
  4. 認知症/高次脳機能障害
その他

見立て8類型

◆軸は倫理規範
人の心理発達段階や愛着に関する理論はいくつもある。今でこそ修正されているが父子関係を基にしたフロイトの精神分析理論。好悪に二分された対象との関係を持ち、後にこれが統合されていくのが心理発達段階だとしたクラインの対象関係論。心理社会的危機という心的葛藤の解決により基本的強さを身につけていくとしたエリクソンの発達理論。いずれの理論も、その前提となる条件が限定的であったり、そもそも発達過程の一部分しか焦点化されていなかったり、何かしらの矛盾があって、どこかしっくりこない印象があった。しかし、このセミナーで語られる「倫理規範」を軸にした発達段階の流れは、乳幼児期から成人期、ひいては老年期に至るまでの全てを包括し、矛盾なく説明されている。さらに、親の障害により通常の発達段階を進むことができなかった“異邦人”についても、倫理規範を軸にすることでその心性を理解することができるとは。何とも驚きである。(T)

◆家族を見立てる際にも役立つ心理発達理論
心理発達段階という軸をもつことで、“家族”がより立体的に見えてきた気がする。夫婦間の発達段階のズレによって生じる問題もある。逆に、夫婦とも緊張感の高い成人Ⅰ期の場合、いずれかが成人Ⅱ期に進むことで解決に向かう問題もある。また、子が親の発達段階を越えることは通常ないという話は、衝撃的だった。カウンセリングを通じて親を越えていくことを援助するのか、或いはどうしようもないと知ったうえで現実的な着地点を探るのか?といった視点は、従来の家族システム論だけでは得られなかった。
例えば介護問題が浮上した際に、子が成人期に達していれば、弱った親を「かわいそう」といたわることができるが、(年齢的には中高年でも)思春期を越えていない場合、「ボケやがって!」と反発し、サービス提供者にとっては「非協力的な困った家族」となったりする。家族と関わる際にそういう理解があると、お互いのストレスも軽減するのかもしれない。 (I)

◆傾聴の“真の基本”技法とは?
よくあるカウンセラー養成講座やカウンセリングの入門書では、クライエントの発言に対して「沈黙」「質問」「復唱」「おうむ返し」「要約」「明確化」等の技法を用いることが「傾聴の基本」である、と言われている。私はこれらの技法に常々疑問を感じており、どこか腑に落ちず、違和感を抱いていた。すると、このセミナーでは「沈黙」する事以外をきっぱりと否定してくれた。沈黙以外は“話題の限定”であり“聴く”ことにはならない。カウンセラーがクライエントに対して、何か言葉を返した時点で、それはカウンセラーが選んで返したことになる、そう先生は仰った。クライエントが自らの心の内を自らの言葉で語る=「クライエントの主体性を尊重する」というカウンセリングの本質が、「ただ黙って聴く」ことに集約されるのだと、改めて実感させられた。この傾聴の“真の基本”を肝に銘じ、これからも目の前のクライエントに向き合っていきたい。(U)

◆正確な見立てを早く作るために必要なこと
福祉や医療の現場では対象者の呈している“症状(状態)”につい目を奪われてしまう。リストカット、食べ吐き、家庭内暴力、飲酒…。それらに一般的な対応をすると、セオリー通りのはずなのに、なぜか大混乱をすることがある。このセミナーによって、その一番の原因はそもそもの見立て違いによる、間違った対応によるものなのだと気付かされた。そして、正確な見立てを早く作るために必要なこと、それは「ひな形(典型例)」を知っておくことなのだと。例えば、家庭内暴力でも無パターンで八つ当たり的な暴力の場合は、統合失調症の前駆症状を視野に入れた見立てが作れるかもしれない。また、罪悪感がなく、葛藤の感じられない飲酒は成人期のアルコール依存症ではなく、いわゆる「直面化の対応」ではさらに悪化させてしまう可能性がある。このようにひな形とのズレを確認することでより正確な見立てにつながり、適切な対応ができるようになるのだと感じた。(T)

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成人期

◆依存症という診断に含まれている誤診の可能性
先生は仰った。「依存症」という病気が社会的に広く認識されて、相談しやすくなり、相談窓口の敷居が下がり、その結果、相談の中に本来の「葛藤をベースにした依存症」以外の相談が増えてくる。その多くは葛藤の無いダラダラとした依存様行為を繰り返す“MRのアルコール乱用”である、と。
確かに、現場で関わるケースの多くは、飲酒に対して罪悪感が薄く、隠すことをせず、しらふの時の緊張感や我慢も見られない。そんなケースに対して「自分の生き方を振り返りなさい」「自立しなさい」という対応をすると、かえって混乱することがよくある。このセミナーで、それは本当の依存症ではなかったのだと気付かされた。他にも、発達段階や性別によって依存の本質が違うことも学び、依存症と呼ばれている人達に対して、一括りに「直面化技法」で関わるだけでなく、各ケースの依存に至る背景を見極めることが、一人一人に合った回復への第一歩なのだと感じた。(R)

◆定型なのに稀な成人期ケース
人のことを「丸くなった」「一皮むけた」などと表現することがあるが、それはまさに成人Ⅰ期→成人Ⅱ期への移行を指しているのかもしれない。自分自身も、そういう時期を越えてきたような気もするし、いまもってⅠ期に留まっているような気もする。移行期と思われる時期を振り返ると、それなりに深刻に悩んではいたが、日常に追われているうちに気がつけば問題は解決…というより解消していた。
そう考えると、多くの成人期の人は、周囲の力も借りることはあっても、基本的には自力でⅡ期に進んでいるということか。カウンセリング場面に登場することが少ないのも頷ける。登場するとしたら、守ってきた規範がよほど厳しく、葛藤が激しいということだろう。葛藤の両側を受容することが大切だとわかっていても、つい「もっと楽に」などと片側に加担したくなってしまう。そもそもなぜここまで厳しい生き方になったのか、背景や要因についても理解したい。 (H)

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思春期

◆「思春期問題」は何が問題?
よく「思春期問題」という言われ方をされるし、私も思春期は心が激しく動く時期だから、問題が起こって当たり前だと思っていた。しかし、「大部分の思春期は問題ない」という先生の言葉に衝撃を受けた。学童期→成人期の移行過程で、親の倫理規範と子の従えない気持ちがぶつかり合い、激しい葛藤が生まれる。そこで起こる家
庭内暴力や親子喧嘩で割れたガラスは「問題」ではなく、解決に向かうための“いいこと”だったのだ。一方、現場で出会う思春期相談には、それ以上に激しく問題化するケースがある。そこには何か通常の発達とは違う要素が必ず入っていて、教科書(一般的な理解)とは違う事象が起こっていて当たり前なのだと先生は仰った。思春期の見立てをする上で大切なのは、子が表現する反抗言動もさることながら、そこから見える「親が子の怒りに反応できているか否か」であり、つまりは「親の見立て」なのだ。この視点を常に忘れずにしていきたい。(M)

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軽度知的能力障害

◆知的能力障害を理解するとケースワークが何倍も楽に!
知的能力障害(MR)については、援助職の間でも捉え方にばらつきがあるように感じる。私自身も軽度・境界域のものを見逃してしまいがちだが、たとえIQが出ていても、療育手帳を持っていても、共通認識の上でケース対応をすることはなかなか難しい。本人に「ちゃんと頑張ろう」「相手の立場を察して」「なぜ計画的にできないの」などと努力や内省を求めて追い込んでしまい、結果として困難化したケースが現場には多い気がする。
MR=勉強が苦手というイメージが強かったが、社会生活の中で浮上してくるさまざまな問題について、講義を通じて整理できた。本人の言動やトラブルを、知的な問題という視点で理解すれば、不思議なことに腹も立たない。
現実として、軽度・境界域のMRはデリケートな領域でもある。しかし適切な支援や処遇を実現するには、少なくとも援助職側は正しく見立てられる力を持つ必要があると痛感した。(K)

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被虐待者「異邦人」

◆愛着は育つもの?
「ウィルスと細菌の違いは何か?」ここからまさか愛着の話が出てこようとは!この2者の大きな違いは内外の浸透圧勾配があるか否かにある。「浸透圧勾配がある」=「自分の空間を持っている」=「自分の外側と内側の区別をしている」ということである。すなわち、自他の区別があることが生命の基本であり、当然、人の赤ん坊も自ら呼吸した瞬間から自他の区別があるのである。マーラーの「分離・個体化」理論がここで見事に覆された。
母との最初の愛着とは「生まれながらにして別のもの」から「繋がっているんだよ」という愛着の“確認”だったのだ。その愛着の確認ができなかった“異邦人”もカウンセリングを通じて人とつながる感覚を取り戻していく。であるならば、愛着を求める気持ちはそもそも大脳の中にあり、愛着が後天的に育つものではない、ということが分かる。愛着は“育つ”ものではなく、正確には“確認”されていくものである。まさに目から鱗! (A)

◆被虐待者の生きづらさの正体はここにあった
被虐待者の心理を考えたとき、虐待行為そのものによる傷や恐怖心は、当然念頭に置く必要がある。さらに講義では、[心理的ネグレクト]=母親の知的/精神障害ゆえに適切な心理的ケアを受けてこられなかったことの影響に、スポットが当てられた。母親を通じて倫理規範を体得してこられなかったために、社会と安心してつながることができない――その存在の不確かさに生きづらさの源を見出したのが、“異邦人”という概念であろう。
目に見える虐待はなくても、母親に問題があったと話すCLは少なくない。しかし常識外の体験をしてきたというだけでなく、幼少期から母親との情緒的交流をもてなかったことこそが、現在の悩みにつながっている…私自身そんな発想すらなかったが、当の“異邦人”でも独力で自覚できる人はどれほどいるだろうか。CLへの伝え方も難しいが、まずは“異邦人”の語る感覚に耳を傾け、受け止めることから始めていきたい。(O)

◆異邦人カウンセリングから見える「愛着を求める気持ち」の在り処
母子関係(倫理規範)を軸に心理発達を見ていくことを学ぶと、「そもそも人が愛着を求める気持ちはどこにあるのか?いつから持っているのか?」そんな疑問が浮かんでくる。
その疑問に先生はこう答えてくれた。「もし、愛着を求める気持ちが後天的に育まれるものだとすると、母の障害(知的/精神)により、最初の愛着の“確認”ができなかった“異邦人”は愛着を取り戻せないことになる。しかしながら、“異邦人”もカウンセリングを通じて、カウンセラーから“確認”されることにより、人と繋がる感覚を取り戻していく。ということは、人は皆、生まれながらにして大脳の中に愛着を求める気持ちを持っているのである」と。
なるほど、だからこそ“異邦人”のカウンセリングには「黙って聴く」受容だけでなく、変法を用い、“対話”によって「ほめる」とか「満足を伝える」といった実感(リアリティ)に繋がる“感情の確認”が必要だったのだ。(S)

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学童期・「成人学童期」

◆三百六十五歩のマーチ?
「わかった気になっていた」ことが揺さぶられて、問い直しをされているように感じる。
「異邦人」と見立てて、実は「成人学童期」だったケースが3連続し、愕然とした。今までの私の異邦人理解は何だったのか?その他についても、自分の理解と見立ては、勝手な思い込みや勘違いだったのではないか?
「+ 4型」を学ぶ前の私にとって、私が所属する相談室に来談するCLの見立ては、ほぼ異邦人かMRの2択だった。しかし、学童期の観点を持つと、学童期(のCL)が意外と多いことに気づく。
2択と3択では、見立ての難易度が全く違う。明らかにMRではないケース、異邦人ではないケースでも、学童期という選択肢をまだ確信を持って捨てられない。学童期だけでなく、異邦人、MR、成人期についても、改めて正確な理解を問い直されていると感じる。3歩進んで2歩下がる(いや、もっとか?)。努力の跡には花が咲いてほしい、きれいじゃなくてもいいから。(A)

大人なのに学童期という不思議さ
まず、年齢的には大人なのに「学童期」の心性を持っている人(=「成人学童期」)がいることに驚いた。そして、その言葉の印象から「子どもっぽい人」と単純に思ってしまいがちだが、どうやらそうでもないようだ。ますます混乱する。
このセミナーにおける心理発達段階は倫理規範の持ち方によって分類されている。その基本に立ち返って考えてみると、なるほど、外在する倫理規範を守るのが学童期。つまり、どのような規範に従っているかで印象は変わってくるだろう。外的な規範に従っているということは、「しっかりしている人」「固すぎる人」「表裏がない人」という印象を与えることも往々にしてありそうだ。
人の心理状態は年齢ではなく、心理発達段階で決まっていく。その人が倫理規範をどのように持っているか、人間関係をどう理解しているかを見極めることが見立てには重要だということを再認識させられた。(N)

◆成人期の親と学童期の親の比較
成人期の親の場合は、内的な葛藤の表現があり、社会の一員としての視野、家族の運営に責任を持つ立場、子に対して母の目線からの発言等がある。学童期の親はそういう視点が持てず、人の表情の観察はできても、子や目下の立場に立っての読み取りができない。(付け加えると、少なくとも喜怒哀楽は理解しているという点においてMRとの鑑別ができる)
家族問題の解決を求めてカウンセリングに来談した場合、成人期は「どうしたら良いか」と自問自答し、葛藤の中から解決を探り出す。かたや学童期は「どうしたら良いですか?」と解決策を人から教えてもらおうとするだけで、悩みは薄い、という違いが見えてくる。
カウンセリングで、この違いを見極める最大のポイントは傾聴であると先生は仰った。こちらから問いかけてしまうと学童期は模範解答を返してくるため、成人期に見えてしまうから要注意であると。基本に忠実に行なっていきたい。(O)

◆目で惑わされず、耳で聴きわける
「学童期」は倫理規範が外在している。だから自責はない。しかし、CLは「自分はできてない」「戦力になっていない」「自分を責めている」「焦りがある」と言ったりする。苦悶の表情を見せ、身体化症状も出ていたりする。自責があるように「見える」。しかし、逐語を作成し、それを声に出して「読み上げた」とき、違和感を持った。「読み続けるに堪えない、悩みというには何か浅い、軽い感覚」というのか。
学童期はMRとは違って、自分や他者、状況を具体的に認識できている。まっとうなことを言う。しかし、成人期にあるはずの、「自分はできていない」ことを認めるつらさや、それを他者に開示する恥ずかしさ、抵抗感が感じられず、言葉が滑っていく感覚があった。
見立ての情報源として、CLの見た目の印象や、発言を視覚化した逐語等の他に、自分がCLの立場で読み上げたときの、「自分の耳で感じる感覚」というものもあるのだなと感じる体験だった。(T)

◆責任の限定性
学童期の特徴の1つに責任の限定性、子育てに対して無限責任をとれないことがあると教えて頂いた。以前、知人が困っていた子どもの問題行動について話したことがあった。「子どもに『~~』と言ったのよ。後は子ども自身の問題だから」と親の責任は果たしたと。確かに話した内容は正論だ。その通りだ。普段から堂々と落ち着いて自信たっぷりな様子の知人の言葉に、私は確かにな、潔いな、ちゃんとした母親はあんなふうに自信をもって子どもに言い切るんだ、自分はあんな風には言えないな、グジグジと悩むだろうし、悩む私はダメな母親だなという思いが残った。今回、学童期の学習をして、待てよ、と思った。そういえばあの時の知人は自責感が無かったっけ。「そういう子どもに育てた自分」という視点が無かったな。問題の責任の所在はあくまで子どもと突き放していたっけ。今回学童期の勉強をしてパッと思い出したのは、私の中で引っかかっていたからだろう。(R)

◆「規律は正しく守りましょう!」
学童期の勉強をして、忘れるともなく忘れていたことを思い出した。以前、趣味のサークルの先生と生徒、20人位である施設に遊びに行った時のこと。電車が施設のある駅に着いてホームに降り立ち、皆はがやがやとおしゃべりをしていた。その時突然先生が大きな声で「静かに!整列!」と号令をかけた。「えっ!?」と一瞬戸惑っていると、さらに「早く整列!」。続いて「号令!」と。私達は「1!」「2!」「3!」・・・と号令をかけ始めた。いい年をしたおばさん達が駅のホームで整列して号令かけ!恥ずかしい~。腹も立つ。サークルのメンバーは先生より年上の人もかなりいた。そのまま整列して改札を通り駅の外に。列を崩さず施設まで歩いた。そして思い思いに施設で遊び、庭でまた先生が大声で「集合!」。大縄跳びの縄を取り出して皆で大縄跳びを。中年、初老のおばさん達が大縄跳び。まるで小学生の様に。それにしても今考えて、怪我などしなくて良かったな~ (O)

自己への責任も有限・限定
◆学童期の特徴である責任の限定性、死への無限責任が無いというのも特徴だという。死は人間にとって最大の危機というのは誰もが疑いを持たないだろう。大方の人は若く元気なうちは、死はまだずっと先の事と現実感が無く、考える事すらしないのが一般的だ。しかし人間はいつか死ぬ。自分の生の期限を知った時、その恐怖は想像に難くない。そして死を受け入れた時、残りの人生をどのように生きるか、一瞬一瞬がかけがえのないものになり、その生き方は深い。では学童期は死を迫られた時どうなのだろう。学童期は自分の死という感覚が弱く、死に直面していない。だから家族や周囲の人間関係も、生き方もこれまでと変わりなく、別れの感覚も薄い。まるで他人事のようだ。倫理規範が内在化されていないように、死も自分が死ぬのでなく、外からもたらされるものなのだ。「お迎えに来てくれる」、「まだお迎えに来てくれない」、誰かが死なせてくれると「お任せ」なのだ。(K)

◆思春期問題から見える学童期
先生は仰った「学童期を直接理解するのは難しい。まずは思春期と成人期をしっかり理解し、違いを見極めなさい」と。例えば、子の思春期問題で親が来談した場合、親が自らの内在化された倫理規範に基づいて子とぶつかり合っているかが見極めのポイントになる。
親が倫理規範を内在化した成人期なら、子が今まで学び取ってきた親の生き方に対して修正を迫った時、親はそれに反論し、親子はしっかりぶつかりあう。そして、子は思春期の反抗を成就させ成人期へと進んでいく。
一方、親が学童期の場合、子の反抗は肩透かしを食らう。親が子に対して反撃できず、ぶつかり合うことがないからだ。それは親自身の倫理規範が外在したままであり、親もその倫理規範を疑わず素直に信じ続けていることに起因する。子は「自分の言っていることがおかしいのかな」と思春期を成就できない。
親子関係のあり方を見極めると、学童期が少し見えてくる。(M)

◆自覚されることのない、心の壁
「大人の学童期」の心から、悩みや葛藤は見えてこない。彼らは与えられた課題を真面目にこなし、自信満々に生きているようだ。その姿に、こちらが空回りする気分になる。親や先生に教わり素直に従ってきた規範を、いったんは疑って反抗し、自分なりにカスタマイズして自らの意思で心の中に置く「守・破・離」を経て、人は“自分を作る”(倫理規範の内在化)。当然、その過程で自分の限界や不完全性を知る。それが成人期の心だ。その迷いが成人学童期にはない。
問題にぶつかった際に、本人が解決策を求めることはあっても、自己の本質的な壁を自覚する可能性は、ごく小さい。むしろ自覚されないからこそ壁といえる。障害のない正常知能で、虐待もなかったにも関わらず、心理発達が思春期を超えるのを阻むものは何なのか。学童期だとわかって腑に落ちるケースもある反面、学童期を知るほどに、掴みどころのない不気味さをおぼえる。(S)

◆学童期は理解するのが難しい
学童期を理解するのは難しい。カウンセリングで異邦人?と思い、進めていてもどうも思うような展開にならず、SVで学童期と判明・・・。事例を重ねて少し見えてくるものがある。気が付いて見渡すと、案外社会の中に学童期は多いのではないかと思う。何の問題もなく社会生活を送り、社会的には自立した大人として活躍している人も多いように思う。しかも学童期にも様々なタイプの人がいるようだ。学級委員タイプ、子どものように素直で純真そうなタイプ、理論を主張するタイプ、気弱なタイプ等々。女性の中にはとてもボーイッシュで爽やかだったり、サバサバしてマイペースで、それが魅力的で人気がある人もいる。外見やその人の立居振舞、仕事をしている姿からは学童期とは思いも及ばない。だからこそ学童期は見立てるのは難しい。理論を勉強しただけでは見立ては難しい。SVを受けたり、実際の事例に触れたりして、感触をつかんでいくことが必要に思う。(N)

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統合失調症

◆統合失調症 急性期と慢性期は全く別の病気
医療や福祉の現場にいると「統合失調症は治るんですか?」と家族や本人から質問される。どう答えていいか分からず、いつも曖昧な回答をしていた。それは自分の疾患理解が曖昧で、漠然と「治らない病気なのだろう」というイメージしか持っていないことが原因だった。
この講義で改めて疾患理解を整理することができた。「発症直後のひどい混乱状態」=「急性期の激しい症状」=「陽性症状」は薬物治療と休息によって治る(治ま
る)が、「慢性期の症状」=「陰性症状」は精神障害として残り、正常機能の低下、喪失によって生活障害を抱え続けることになる。
冒頭の質問に先生は「治る症状と治らない症状があります」と答えると仰った。なるほど、発症から慢性期に至る経過をしっかり理解していれば、その答えが一番伝えやすく、家族にも伝わりやすい。猿真似にならない様、理解を深めて自分の言葉で答えられるようになりたい。(N)

◆葛藤を葛藤のまま抱えて、生きていくということ
統合失調症の急性期にしばしば重大な事件・事故が起きる。心神喪失状態でのことゆえ、記憶も定かではない。薬物治療で落ち着きを取り戻した時に、「自分は病気のために事件を起こし、治療が必要なのだ」という病識はどこまで持てるのだろうか。
疾病教育によって、病気の知識や服薬の必要性は一通り理解できても、それを我こととして捉えるのは、非常に辛い作業ではないかと想像される。多くは「自分が病気だとは認めていないが、障害年金を受給する」といった、ぎりぎりのバランスの上で生きているのかもしれない。
彼らがカウンセリングに登場することは少ないが、福祉分野のケースワークでは関わりが長期に及ぶこともある。病気によってできなくなったことへの喪失感や不全感を抱える人に、支援者側が「これで良しとしようじゃないか」と押し付けるのでなく、どうにもならない葛藤を受け止めつつ適応を見守る。そこに希望を見いだせる境地に至りたい。(S)

◆慢性期の妄想に込められた無念さ
「○○大学を受験したいんです。大学が私に来てくれと言っているんです」と話す50代半ばの統合失調症の方がいる。この話は何年も変わらず続いている。発症は大学4年生。しかも当時通っていたのは一流大学だった。
統合失調症の好発年齢は、10代半ば~ 30代前半。正常に発達し社会適応を遂げてきた人が、人生これからという時期に発症する。本人が受ける衝撃は大きく、喪失感は想像を絶するものだと思う。“普通の人生”は二度と取り戻せないのだ。安易な投影かもしれないが、妄想交じりの話が彼らの計り知れない喪失感の裏返しだと思うと、そこに深い哀しみが含まれている気がしてならない。
医療や福祉の現場では、こういう話に対して、「症状だからしょうがない」と聞き流したり、「軽快させなければならない症状」として否定したり、薬を増やしたりなどの対応がされてしまうのが現実だ。彼らの心情に寄り添いながらまずはじっくり耳を傾けたい。(A)

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自閉症スペクトラム障害

◆誤診が多い「自閉症スペクトラム」
予てから先生は「自閉症スペクトラムを言葉で理解するのは難しい」と仰っていた。「発達障害の中でも特に誤診が多い。それは実際の自閉症スペクトラムに触れたことがなく、概念しか知らないことによって起こることなのだ」、「例えるなら、みかんとバナナしか知らない人が、りんごという概念を言葉だけで学んで、梨を食べて『これはりんごだ』と思ってしまうようなものだ」と。
先生によれば発達障害と診断されている人を、見立て8型で見直すと、「MR」、「自閉症スペクトラム」の他に「異邦人」が誤診されていると言う。発達障害圏の診断を見たら、まずこの3つを思い浮かべ、見立てを再考する必要がある。
「発達障害」が広く知られるようになって、言葉が独り歩きしがちであるが、まずは理論的な理解をしっかり頭に叩き込まなければと改めて思う。(R)

◆自閉症スペクトラムのゴミ屋敷
自閉症スペクトラムの患者さんのアパートを訪問したことがある。ゴミ屋敷だった。知的障害の有無・程度やサポート環境の有無などで、部屋の乱雑さは多様だが、共通しているのはそもそも、本人にとってゴミという感覚そのものが無いように見えることだ。いろいろなものが床に散乱していた。私がもう使わないと思われるものを手に取り「これ、何かに使うの?」「捨てないの?」と指摘するまで、それがそこにあることすら意識していないように感じた。
「ゴミ」とはすでに社会的な意味を含んだ言葉である。不用なものは捨てる、と私たちは思う。しかし、彼らの部屋にある「私たちがゴミと呼ぶもの」は、彼らにしてみれば何の意味も無いものであり、私たちが道端の小石や落ち葉をいちいち気にせず「風景」として扱っているのと同じようなものなのかもしれない。
彼らの人間理解・社会理解が私たちとは異なるものであることが「ゴミ屋敷」から垣間見えた。(K)

◆異質なものを理解する難しさ
自閉症スペクトラムでは他の発達障害と違って、人間関係の理解が量的ではなく質的に異なるという。そのポイントは愛着の有無だ。それゆえに彼らが「寂しい」「みんなとおしゃべりしたい」と言ったときに、その言葉の意味は普通とは似て非なるものとなる。本人にとってはどのような意味合いなのか、前後の文脈の中で検討・確認してみなければわからない。
それでもつい自分の感覚で捉えてしまう。自分というフィルターが、理解の前に立ちはだかる。本人の悪びれない態度に「自分の非を認めようとしない」と憤っても、そもそも本人は “非”だとは認識しておらず、何を注意されているかピンとこない、さらには“非”は隠すものという発想もないかもしれない。
本人よりも家族や同僚などが対応に苦慮し、相談に至るケースが多い。本人の身近にいる人と一緒に“うまくはまるツボ”を見つけ、本人がストレスなく適応していけるような支援を工夫していきたい。(S)

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認知症/高次脳機能障害

◆認知症は発症するもの
認知症の有病率は80歳以上で20%、裏を返せば80歳以上でも認知症にならない人が8割いるということだ。これには驚いた。マスコミなどを始め、一般的な認知症の理解はおそらく「加齢と共に発症し、誰でもなりうる」というものであろう。だからこそ、「認知症予防のために○○をしましょう」「考えることをしないと認知症になりますよ」「趣味を多く持っていると脳が活性化されて認知症の予防になります」という「予防法」がまことしやかに言われているのである。
確かに体力や記憶力は加齢の影響を大きく受けて低下する。しかしそれだけでは「認知症の発症」ではない。正常の加齢と認知症の最大の違いは、「社会性」の低下・喪失なのである。
ケースを振り返ると、物忘れはあっても空気を読むといった対人理解は失われていない人も多くいることに気づく。高齢者支援の現場ではこの違いをわかっているか否かで支援の質に大きな差が出ると肝に銘じておきたい。(M)

◆認知症介護にも発達段階が影響する
認知症になった親を介護する際に大切な子の心理状態は何か?
それは親を心理的に下に見て「かわいそう」と思える感覚である。それは今までの親子関係から心理的に上下逆転することだ。そうできないと穏やかな介護にならない。その逆転の基になっているのは、「親が子の成長に対して無限の責任を持っている」という感覚ではないだろうか?それを受けて育ち、成人期に到達した子は「親の死に対して無限の責任を持つ」という感覚を持てるのだと思う。
心理的に上下逆転できず穏やかな介護ができない子、認知症の親に厳しく当たってしまう子、老人虐待をしてしまう子は、その子自身が学童期や思春期であったり、あるいはMRや統合失調症といった精神障害をもっているのかもしれない。認知症本人もさることながら、その家族の見立てをしっかり行なうことで、サポート体制をどう組み立てていくかが決まると感じた。(M)

◆認知症ケアにこそ役立つ[見立て]
セミナー全体を通じて[見立て]が最重要視されるが、認知症の現場も例外でないと感じる。本人が自分の状態を正確に伝えられない分、ケアする側に問題を切り分けて見立てる思考が要求される。例えば「失禁」という現象も、身体の不調・足が弱くトイレに間に合わない・トイレの場所がわからない・トイレでない場所をトイレと誤認する・トイレに行けても便器を使えない・尿意を感じられない…等々の原因によって起こり、それぞれに対応は異なる。
認知症の中核症状は進行していくが、それに応じて見立てを作り直し、周辺症状や問題行動の意味をよく理解できるようになると、適切なケアができ、本人は落ち着く。認知症の人を抱える家族の苦労は大変なものだが、「それが認知症の症状なのだ」とわかり、今後の見通しが持てるだけでも負担感は軽くなるように思う。(S)

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その他

◆ことばの発見は人間理解
ある精神科医が、精神医学は言葉を発見することで見えないものを見えるようにして来た歴史だ、と言った。そう、言葉があって概念が分かり、概念が分かるから実態が見えるのだ。虐待しかり、DVしかり。
このセミナーでは、倫理規範を軸にして発達段階を見ることで、今まで「知っていたはずの言葉」に、これまでとは全く違う概念を与えて理解を広げた。概念がしっかりしている理論は分かり易いし、学んで気持ちがいい。
一方、人格障害の講義を受けて、現在使われている人格障害概念とは、異なる起源の障害概念を寄せ集めた類型論であり、妥協の産物であると分かった。そもそも言葉に与えるべき概念の出処がバラバラだったのだ。それ故に人格障害のいくつかは疾病単位としてあり得るのかと批判されているのも分かった。それを踏まえて10個の人格障害(の全部ではないが多く)を、見立て8型にプロットし直したものは、真の意味での分類だと思った。(R)

◆人格障害、発達障害って流行するの?
近年、年末になると流行語大賞が話題になる。私の勤務する相談室でもカウンセラーの間で流行の言葉があるように思う。数年前までは「人格障害」、「境界性」。最近は「発達障害」が流行っている様だ。難しいクライアントや、カウンセラーが上手くカウンセリングを出来ない時に「あの人、境界性だから」という使い方だ。自分が理解できない事を知っている理論に当てはめようとするのは一般的な事だが、相談室の中の理論の出処は一般書で、その流行は一般書のブームによるのだ。しかし以前、一般書の内容を根拠に高橋先生に話した時、そういう本を一般の人が読むのは構わないが、カウンセラーはプロなんだから、目の前のクライアントの言葉から見立てをしなければならないという趣旨の事を言われた。そうなのだ、見立ても一般書に頼らずに、見立て8型をしっかり学び、それに沿って見立てて、本当のカウンセリングをしなければならない。私達はプロなのだから。(K)

人格障害なんて、見立てにはない
常々、見立て8型の中に「人格障害」が入っていないことに疑問があった。特に境界性人格障害は、現代のモデル臨床像、と言われる位に症例も多く、臨床現場で問題となっているのに。しかし、Lectureを受けてその疑問が解けて、すーっと人格障害概念が整理されていった。
講師曰く、DSM-5で問題となる類型は、統合失調症型人格障害と反社会性人格障害のみで、他の類型は、境界知能をはじめとする他の見立ての見誤りである。更に曰く、前者は統合失調症群、後者は発達早期からその兆候が確認される疾患で、極論すれば発達障害群である、と。
ということは、人格障害という見立ては事実上、存在しないことになる。そうか、人格障害という診断に惑わされず、8型をしっかりと理解すればいいんだ。そう確信できた。これでやっと安心して、8型で見立てに取り組める。(Y)

誤解から二重に傷つく被虐待者
「私ってAC(もしくは共依存)なんでしょうか?」とCLに問われた際には、CLの理解している定義を聴くようにしている。被虐待者が自らをACと思っていることも多いからだ。虐待する親からなかなか離れられず(あるいは物理的に親と離れていても、パートナーとの関係性について)、「共依存だ」と言われ、本人に非があるかのような解釈に責められている被虐待者は少なくない。また親や過去ではなく自分がこれからどう生きたいかに目を向けるべきだと諭されて苦しんでいることもある。母親の障害と、それによる愛着関係不在が見落とされていることによる二次被害とも言える。
AC理論にはとらわれず、我慢とも思わず親や周囲に合わせなければ生き抜けなかったこと、「どう生きるか」以前に「生きていい」前提がなかったことを理解し、過去をじっくり聴き、「あなたのことを、こう理解しました。」と伝える正攻法で回復を支えたい。(C)

◆共依存・その本質は何?
高橋先生から共依存て何?と聞かれ、「人に必要とされる必要のある人」とか、「アル中夫のアルコール依存を止めさせようとしてアルコール依存を繁茂させる人」と、アディクション業界での「常識」を答えた。それってどういう事?とさらに聞かれ、答えに詰まった。しかし考えるとその「常識」は人間の本質を否定するものではないか。「人に必要とされる必要」。誰からも必要とされなかったら?究極、生きていくことも出来ないかもしれない。必要とされたいと思わないとしたら、それは問題の核心に迫る問題だ。「家族のアルコール依存を止めさせようとして~」。むしろ、家族のアルコール依存に必死にならないとしたら、それこそが問題だ。無関心だったり、平気で放っておけるのだったら?それこそが問題だ。他の要素がある。自分を、家族を、家を守るために必死になるのが普通の人間だ。(C)

◆基本に忠実であれ(1)
「あなたが尻拭いをするから本人が困らないんです」「本人の問題は本人に返しましょう」いわゆる直面化対応が、依存症の家族に行われる。家族は「共依存症者」と呼ばれ、「共依存になってしまった誤った対応や考え方に気づき、家族自身も変わる努力が必要である」と指導される。時には強制的に本人から引き離されるケースも少
なくない。私もそう対応していた。
しかし、本人から手を放しても心理的に楽にならない家族が少なからずいることに気づき、疑問に思ってきた。その家族への対応は正しかったのか?家族が楽にならないのはなぜか?
その答えはこのセミナーの中にあった。支援者自身が抱えている葛藤が解決されていないため、「共依存」に固執してしまい、本人や家族の抱える葛藤を受容できず、結果として「本人-家族」の関係性を見誤っていた。葛藤を受容する、この基本中の基本が難しい。(T)

◆基本に忠実であれ(2)
依存症の治療場面や、対人援助職の間で「共依存」や「バーンアウト」という言葉はいろいろな使われ方をしている。時には本人や家族の回復を促す目的で、時にはそこに関わる支援者を戒める目的で。つまり対象者が変わればその意味が変わり、使う人が変わればまた違ったニュアンスで語られる。その定義がいかに多いかを改め
て考えさせられた。定義が曖昧であれば、そういう概念は存在しないということに等しい。
もし、フロイデンバーガーの捉えたバーンアウトが「異邦人のうつ」であるとするならば、一般的に言われている「職場の環境調整」や「安易なリフレッシュ法」ではどうにもならないこともある。解決のために本人のカウンセリングや生き方の調整等が必要になることもあるだろう。
「共依存やバーンアウトという見立てでは解決につながらない。8型で見立てること!」これまた基本中の基本である。(T)

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